こんばんは。
加藤秀視です。
新刊の表紙のデザインがもうすぐ出来上がる。
自分が最高の作品と思うのはもちろんだが、今回の本は間違いなく読んだ人が今の社会や多くの人に必要と思ってもらえる一冊に仕上がった。
今長倉さんやプロジェクトの同志たちとがんがんディスカッションして大詰めに入ってる。
俺も原稿の最終チェック中。
前回お知らせした6月6日の夜は空けておいてちょうだい。
このプロジェクトにみなさんの名前が刻まれるから。
俺も妥協なく最後までこだわり抜いていく所存です。
それでは本題。
思えば、今まで本当にたくさんの人と出会ってきたが、俺の記憶に残る人っていうのは決まってみんなカッコのつけ方を知ってる人だった。
俺がまだヤンチャボウズで施設を出所した頃、そうだな?14とか15のときかな。
強烈に惹かれた人がいた。
その人は普段口も素行も態度もスペシャルが付くほどのあまのじゃくだった。
いつもギラギラしてて、なんていうか、こう、触れたら斬れてしまう刃物のような人だった。
だが、仲間に何かあったときは必ず先頭に立って体を張ってでも仲間を守る人だった。
周りは親もいない、帰る家もない、どこも雇ってくれない、そんな問題児のガキンチョたちばかり。
みんながプーで一文無しのとき、自分も金がないのに、俺たちに黙って新聞配達して稼いだ金で何食わぬ顔をして俺たちガキンチョに飯を食わせてくれたり、みんなが日常茶飯事のように起こすトラブルも何食わぬ顔をして自らが一番辛い役回りを引き受けて、無理しても突っ込んでいく人だった。
その人は、誰もが引きたくないクジ、みんなが引けないクジを、
「俺は引くよ」
と言って躊躇なく引く人だった。
ガキンチョたちも俺も、この人に尽くしたい!と本気で思ってた。
何でもやります!って気持ちだった。
なぜか?
いま考えると答えは単純だった。
ガキはガキなりの生き様がその人にはあったから。
でも言ってしまえば、ただのカッコつけ。
みすぼらしく生き残るなら、カッコつけて死んでやる。
それが俺の生き様なんだと言わんばかりの人だった。
俺はそのときガキンチョすぎて理解できんかったが、今ならわかる。
世の中、仲間を大事にします、家族を大事にします、恋人を大事にします!社員やお客さんを大事にします!って豪語してる人。
綺麗事とか、自慢話とか、豪邸に住んでるとか、海外がどーのこーのとか、夢ばっか語ってるとか、それを含めたキモい人。笑
たくさんいる。
だが、なぜかそう言う人達にまったく惹かれない。
ゼロ。皆無。
どうしてなのか?
それは、言葉だけだから。
ただの言葉を使ったカッコよさに過ぎないから。
要はただの口八丁ヤロウ。
ただの成金。とにかくキモい。笑
でも、本当にカッコいい人の生き様ってのは、行動のカッコよさなんだよな。
歌、アート、スポーツ、ビジネス、社会貢献、どんな世界にいても自分の生き様がある人。
顔がカッコいいとか、口がうまいとか、お金が持ってるとか、そういうことじゃない。
確かにそういうものも魅力の1つかもしれんけど、結局、生き様がないヤツはカッコよくねえんだよ。
本当のカッコよさの基準っていうのは、やっぱり生き様なんだ。
それは言葉で何を言ってるか?じゃなくて、今実行していること。
それが自分の譲れないことで、誰かのためになるなら、どんな辛いことでも無謀なことでも突っ込んでいく。
そこに生き様を感じるんだ、人は。
でも、それはみんなのためっていうのもあるけど、本当はただ自分がカッコつけたいだけ。
たとえ自分が損しても、何かを失ったとしても、そこまでカッコつけ通した人に生き様のgodが宿りはじめる。
※ここ赤ペンね。
ある意味、自己満で自分に何の得にもならんこともあるかもしれない。
でも、そのカッコ付けた生き様に人は惹かれ、ついていきたい!ってなる。
金で集めた奴には、金で離れる輩がつく。
生き様がない奴には、生き様がない輩が集まる。
実際、仲間を大事にするって口でいうのは簡単だが、そんな容易いことじゃない。
人気マンガ、ワンピースに多くの人が惹かれていく理由の一つは、ルフィに生き様があるからだろ?
仲間のために、目の前の人の為に、体はって命懸けて生き様を貫き通しているからだろ。
親が我慢して子どもに与える、仲間の為に自分が身を削る、それは全部もしかしたらただのやせ我慢で美徳で調子こみヤロウの自己満な行動かもしれない。
だが、こういった行動を苦痛でやってるか?と言われれば、そうじゃないんだよ。
やってる本人はやりたくてやってんだよ。そこまでしてカッコつけてぇだけなんだよ。
俺の盟友であり、同志の長倉さんもよく「自分はどうしようもないダメな人間だ」って言うけど、でもそこには彼の生き様があるわけ。カッコいいんだよ。
長倉さんには自分を蹴落としてでも人に伝えたいものがあるし、そもそもなぜ自分を蹴落としているのか?と言えば、誰かのためだろ。
「俺はダメな人間だけど、ダメな人間はダメな人間なりのやり方がある。ダメな人間でも楽しく生きれる」
「俺はできないことだらけだけど、楽しくやってる。だからできなくても自分を責めるな」
って。「ナガクラケンタロウス」を美化しすぎか。笑
俺は思うんだ、誰だって生き様を貫くことはできる。
誰だってね。
じゃ、その生き様はどこから生まれるのか?って言えば、やっぱり行き着くとこは自己愛なんだよ。
自分が命を削ってまで、身を削ってまで成したいことがある、貫きたい生き様がある、カッコつけてえってのは、自分を心から愛しているから生まれて くる衝動なんだ。
どうして自分を愛してるのに、自分を犠牲にするんだ??って思う人もいるかもしれないけど、それは違うんだ。
自分を犠牲にしてまで貫きたいものがあるっていうのは、自己愛の究極なんだぜ。
命は確かに大切だよ。
だけどさ、本当に大切なのは命そのものじゃなく、命をかけたいと思える「何か」じゃねえのか。
だから、生き様っていうのは自己愛の表現なの。
親が自分を犠牲にしてまで子どもを守るのは、自分を愛しているから。
リーダーが自分が傷ついても仲間を守るのは、自分を愛しているから。
親が自分を愛せてねえから、子どもに虐待したり育児放棄してしまう。
リーダーが自分を愛せてえねから、仲間を責めたり責任転嫁してしまう。
自分をいつも責めたり自分の命を粗末に扱ってるから、他人も責めたり命を粗末に扱ってしまうんだ。
自己愛があるから、自分が傷ついてでも子どもや他人を徹底的に愛せるんだ。
貫くってのは、ときには自分が深く傷ついたり、場合によっては命を失うこともあるかもしれない。
それを見て回りはバカだ、アホだ、自己犠牲だなんて言うかもしれない。
でも、それが生き様であり、カッコのつけ方なわけだ。
今思えば、被災地支援を行なったのも同じだった。
俺が被災地を支援できたのは、みなさんのおかげ。100%支援して下さった方のおかげだ。
でも、じゃあなぜ俺にみなさんが支援してくれたのかって言えば、俺が自分の身を顧みなかったからだと思うんだよね。
震災2日後に現地に入るって中々できないことだ、ってみんな思ってくれたんだと思うんだ。
最初、いろんな人からあーだこーだ言われたよ。
震災後すぐ福島第一原発の付近に入った時も、まだ危険だから入らない方がいいとか、原発の影響で被爆してしまうぞ、とか。
確かに俺もちょっとは考えたよ。
その時に。
でも、俺はそれでいいと思った。
いつかは死ぬんだ。なら俺は死ぬ瞬間まで自分を高めてぇし、もっとカッコよくなりてぇ、とことんカッコつけて死んでいきたいって思ったから。
いま聞けば、失笑したり、大袈裟だよ!って思う人もいるだろうよ。
でもな、あの震災直後で世界全体が原発付近に入るのは絶対ヤバイってのが世界の共通認識だった。
もっと言えば、震災後日本から他国に避難した人、東北から避難した人、関東から避難した人がどれだけいたか?
そんな状況の中、避難するどころか正義感気取ったバカは、敢えてそこに向かっていくんだからな。
生存者がいるらしいけど、相手からの一方的なメールだけ。
自衛隊と連絡を取り合っても確実な情報がつかめない、電話は繋がらない、メールも返ってこない、ただ食料や水も全てのパイプラインが止まって1週間以上経過し、何百人が苦しんでるという曖昧な情報だけ。
最初は確かな情報として確認が取れなく困惑してた。
でも、その付近からSOSが届いてんだよ。
じいちゃんもばあちゃんも子どもたちも腹が減った、喉が渇いたって。
俺に行かない理由なんて無かった。
被災地で帰る場所を失った子ども達と出逢い、俺は少しでも東北の力になりたかったし、幼少期の自分と重なった子ども達を救いたかった。
もし、それで死んでしまったとしても、その瞬間に自分の生き様を貫き通していればそれでいいと思ってる。
それが俺のくだらねえカッコつけで、自分の生き様なんかもしれない。
アナタには自分を犠牲にしてまで守りたいものはあるかい?
カッコつけて墓場まで貫き通したいものがあるかい?
あるなら、もっと自分を愛せ。
ないなら、もっと自分を愛せ。
自分の全てを受け止め、愛して愛して愛し抜いて、不器用に無様に生き様をさらしていこうぜ。
そういう人間が結果的に勝つんだよ。
これからの時代は、
氣愛のアイラブミー!だ。
バカヤロー 笑
人生楽笑。
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